考えるペンギン

いろいろ考えてます。

ぼっち・ざ・ぶろぐ

ネット上の距離感ってむずかしいですよね。

 

私は以前、某SNSで発信していたことがありますが、今ではそこは見る専です。辞めた理由は人間関係のトラブル……ではありません。幸いFFさんたちはいい人ばかりで、楽しくお付き合いをしていたのです。

ですが私はメッセージを送った後、返信がくるまで時間が空いたりすると、自分の送った内容が相手を不快にさせたのでは? と勝手に心配をしてしまうというとても面倒くさい性格をしています。

その反対に、相手も私のリアクションを待っているであろうことも想像してしまいます。

そのうちに、読むことや反応することを義務のように感じるようになってしまいました。

 

それから、相手の方以外にもそのやりとりを見られてしまうというところも、気を使うところです。「こいつは相手によって態度を変えている」と思われないともかぎりません。

 

というわけですので、私はネットで人とつながることはしない方針です。友達がほしいという思いももちろんありますが、誰かが私の書いたものを読んでくれたらそれでよしとしたいです。

こちらから読者登録させていただくことがあるかもしれませんが、書店で雑誌を手に取るような感じですので、興味のあるジャンルが変わるなどの理由で後から解除することもありえます。どうぞ悪しからずご了承ください。もちろんフォロバも不要ですし、フォローしてくださった方もご遠慮のないようにお願いします。

情報の洪水の中で見つけてもらうことさえむずかしいということは承知していますが、それでもあくまで自由意志で、書いたり読んだりしたいのです。

 

 

多様性の守り手

私には英語という、どこへ出しても恥ずかしくない趣味がありますが、もう一つの趣味はBL小説を書くことです。BL小説を書くことが恥ずかしい趣味であるなどということは断じてありませんが、引かれそうで人には言いづらい趣味であることは否めません。特に面接などでは答えにくいですよね。

 

ちなみに私は四十代です。

BL小説を書いている四十代女性というのは、はたしてどのくらい存在するのでしょう?

ある調査によれば、女性の五人に一人は腐女子だということです。さらに他の調査によれば、定期的に小説を書いている四十代女性の割合は、全体の3%ほどだそうです。

その二つの数字を単純に掛け算してみると、

0.2 × 0.03 = 0.006

0.6% という数字がはじき出されます。

だいたいこのくらいの割合で存在するといっても、そう間違いではないかと思われます。どうやらかなりのレアキャラのようです。

 

周りを見ると、同年代の女性たちは仕事に家庭にと本当に忙しそうです。私の数少ないリア友たちもほぼ全員が働いており、やはり自分の時間などはほとんど取れないようですが、それを当然のこととして受け止め、淡々と日々の勤めを果たしつづけているのです。偉すぎます。

そんな中にあって、一円にもならないBL小説を書いている私っていったいなんなんだろう、という闇モードに突入する日も少なからずあります。かといって、たぶん私は彼女たちのようにはできません。

 

だけど今の世の中はちょっと、忙しいことが当たり前になりすぎているのではないかとも思うのです。もし全員が全員、余暇を犠牲にして働きつづけるようになってしまえば、それはだいぶ生きづらい世の中ではないでしょうか。

やはり0.6%くらいはBL小説を書く主婦が存在していた方が、多様性が豊かで良い社会であると思います。できれば0.6%と言わず、10%くらいそういう人がいる世の中になったら素敵ではありませんか。

 

 

世界と小さな棘のこと

一週間に一度ブログを書こうと決めたくせに、しばらく書いていませんでした。

ずっと心に棘のようなものが刺さっており、それが気になっていたからです。

 

でも今日はひさしぶりに何か書いてみようかなと思いました。

私の大事にしている言葉について書きます。

 

"The body is the shore on the ocean of being."

 

これです。

体は、存在の海に接する岸辺である。スーフィーイスラム神秘主義)の言葉だそうです。

 

私たちは世界という存在の海の中に、ある日、たぶん何の理由もなくまったくの偶然でひょこっと生まれて、わけもわからないまま漂いつづけています。

その海と、私たちの意識との接点が肉体であるということです。肉体を通して世界に触れているということです。

 

目に映るもの、肌に触れるもの、全てが世界です。そんなの当たり前ですけど、あらためてそう意識してみると、まるでたった今この世に生まれ出たかのように新鮮に感じられませんか? 手近にあるものに触れてみてください。なんでもいいですが、テーブルとか壁とか、自分より大きい物がいいかもしれません。なでたり、しがみついたりしてみましょう。そのとき、世界にしがみついているんです。

 

私たちは存在の海の中で健気に生きる小さな命です。(もちろん私もです。いいおばさんなんですけど、健気で小さな命には違いないでしょう。)

肉体が滅んだら、また海に溶けて還ってゆくのだと思います。それはそれで気持ちよさそうですが、海の時間は永久で、それにたいして肉体の寿命は数十年。そう思うとやっぱりものすごく貴重ですね。そして肉体を失えば、世界に「触れる」ということはできなくなってしまうのです。私は許された時間ぎりぎりまで、「私」として世界に触れていたいです。

 

 

自己肯定感を育てる

先日の記事でしぶっていた美容院はちゃんと行ってきましたが、それはさておき最近どうも気分が上がるようなことがありません。

子育てがひと段落してみれば、自分の人生はもう折り返し地点をすぎているし、キャリアもないし特技もない。平凡な若い娘だったのが、平凡なおばさんになっていたというわけです。

しかしなんの努力もしてないわけではなく、たとえば英語の勉強とか創作とか、自分なりにがんばっていることはありますが、なかなか目に見える結果として表れてはくれません。

 

じつは今年からAmeliaという翻訳の情報サイトに登録しているのですが、先日はじめてトライアルという翻訳の実力判定試験を受けてみたのです。A判定は恐れ多いけどB判定くらい出ないかなあと淡い期待を抱いていましたが、結果はC判定でした。やはりそんなに甘くないですね。

 

すごくいいことはないけど特別いやなことがあるわけでもないし、平凡でも幸せでそれに感謝もしていますが、このまま年だけとっていくのだろうかと時々さみしくなることもあります。ここらで自己肯定感を爆上げしてくれるようないいことが起こらないかなあと思っても、そうそうあるわけもなく……。

やはり自己肯定感というのは、子どもを育てるみたいにゆっくりじっくり時間をかけて育てなくてはいけないのでしょう。

もう四十代ですが、まだ四十代ともいえる。

目標はないよりあった方がいい。

前を向いて毎日を積み重ねていけば、きっと自分の中に何かが育っていって、これが私なんだと思えるはずです。

 

 

美容院はお好きですか?

私は苦手です。

面倒くさいのではなく、苦手なのです。

美容師さんというのはもっとも微妙な距離感にいる人だと思います。友達でもなく、知らない人でもなく、一定の間隔でたまに会う人。そういう人との距離感が一番難しいのです。そういう相手と至近距離でかなりの時間をともに過ごさなくてはいけないのが、美容院という場所なのです。

友達ならばどんな話題でもあまり考えることなく振ることができますが、美容師さんが相手だと、どの程度プライベートをさらけ出すか、また相手のプライベートにふみこんでいいのか、まったくわかりません。美容院が好きという人はすばらしいですね。社交レベル99です!

 

そしてあの美意識の高いおしゃれな空間も苦手です。若いころならいざしらず、今の私には完全なるアウェイです。

犬や猫みたいに、髪も一定の長さになったら伸びなきゃいいのにと本気で思います。もしくはAIによる完全自動ヘアカットマシーンが早く開発されないでしょうか。

 

髪というのは不思議なもので、昨日まではなんとか納まりがついていたのに、ある日とつぜん臨界点のようなものを超え、その日を境にどうにもまとまりがつかなくなるものです。

私は先週くらいにその日を迎えてしまったのです。早く美容院にいかなくてはと、憂鬱なる今日この頃です。

 

 

書くことについて書く

三年くらい前から趣味でBL小説を書いています。

その前からずっと何かを表現することに憧れはありました。

言葉で的確に思いを表現したり、すばらしい世界を構築できてしまう人に、嫉妬に近い憧れを持っていましたが、それにも関わらず、自分で書いてみようとは思っていませんでした。絶対に無理だと思っていましたし、照れもあったからです。

 

趣味らしき趣味はありませんでしたが、英語の勉強は若いころから続けていました。その一環で、あるときシャーロック・ホームズの翻訳に挑戦してみました。翻訳には原作があるので創作の要素はあまりないようですが、英語で書かれたものを自然な日本語で表現するというのは思ったより創造的な作業でした。場面を思い浮かべながら適切な表現をさぐっているうちに、自分で自由に登場人物を動かしてみたいという欲求を感じるようになり、それがどんどん大きくなって、つき動かされるようにしてとうとう自分の物語を書いてしまったのでした。それ以来、物語を書くことも趣味に加わりました。

 

さらにブログまではじめてしまったわけですが、こちらは特にきっかけがあったわけではなく、ただなんとなく書きたくなって始めました。専業主婦なので、普段人と話さないからかもしれません。

小説とブログは違う脳で書いてる感じです。ブログはわりと肩の力を抜いて書いていますが、何を書くか決めるのが難しいですね。本当に変化のとぼしい毎日を送っているため、日常の中にネタがありません……。

小説の方は、原料となる妄想は脳内で量産できます。しかしこれを読んで伝わる物語という形にするのはまた別の話です。文章も少しは文学っぽくおしゃれにしたいですし、飽きない展開にする必要もあります。

だから文章力がほしくてたまらないです。

以前は素敵な文章を書いている人をばくぜんとうらやましがっていましたが今は違います。この人から盗もうと思うのです。もちろん作品を盗んだりはしませんよ。技術を盗むのです。しかしこれも簡単ではありません。日々勉強です。

 

しかし文章力よりなにより大事なことは、とにかく書くということです。

書くからには良いものをと思うし、作品への思い入れもありますが、それより私にとって大事なのは、書くという行為だということが、だんだんとわかってきました。

書くことによって心のバランスを保っているらしく、しばらく書いていないと落ち込んだりイライラしたりしはじめるようです。

 

今はまだまだ書くことに対してかまえている部分があると思います。何か書くということはけっこう頭を使うし、面倒なことでもありますから。

もっと生活と書くこととの距離を縮めていきたい。

それこそ息をするように書ける人になりたいです。

 

 

何者でもないけれど

先週某SNSで見かけたある意見について考えたことを書きます。

こういうときは出所をはっきりさせるべきなのかよくわからないのですが、とりあえずぼかしておきます。

私が読んだのは他の人が引用していたほんの一部分なので、誤解もあるかもしれないということもお断りしておきます。

 

それはビジネス界で活躍されている意識の高い元(今も?)お笑い芸人さんの意見だったんですが、「二十代が人生を決める。そこでがんばらないと出世しない。何者にもなれない」というような内容でした。いさぎよいまでに弱者を切り捨てています。

 

たしかに一理あります。

こういう意見に啓発されて、出世のためにがんばるのは、決して悪いことではないと思います。

 

それでも、二十代から努力した全員が出世できるかというと、そうともかぎらないですよね。がんばる人が増えても椅子の数が変わらなければ、出世できない人もでてくるのでは?

そしたらもっとがんばらないといけませんね。そうやって競争は激化していくのでしょう。

 

ところで、「何者にもなれない」って、いつごろから使われだした表現なんでしょう。昔はあまりそういう言い方を聞かなかったような気がします。

そして「何者かになる」ではなくて、「何者にもなれなかった」という否定形の過去形で使われることが多い気がします。

 

「何者にもなれなかった」

自虐の中に、そんな自分を慈しむかのようなニュアンスを感じます。

 

ちなみに私は何者にもなれてない、普通のおばさんです。

「何者かになりたい」と、全然思ってないといえば嘘になります。なれるものなら何者かになりたいです。

そして努力や出世は悪いことではなく、それを否定はしません。適度な努力はむしろとても良いことだと思います。

 

だけど、社会的成功のみを追い求めるのはちょっと味気ないと思います。そんな人が主人公の映画があったら、とてもつまらないでしょう。ましてや自分の人生をそんなふうに生きるのは遠慮したいかな。

それにみんながみんな出世を目指して必死に努力しなければならないような世の中には住みたくないです。疲れます。

 

人生にも社会にも、ゆとりが必要ですよね。

 

 

あなたはなぜ専業主婦を叩くのか?

専業主婦――。

今やとてもセンシティブな言葉になってしまいましたが、私はまさにその専業主婦です。

世間、特にネット上で、専業主婦がどれほど叩かれているかは多くの人の知るところであります。

 

キリストは「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」と言ったそうですが、凡人である私はそこまで優しくなれません。

そうかといって殴りかえしたりしたら喧嘩になってしまいます。それも避けたい。

 

そこで、専業主婦を叩くのはどういう人たちなのか、なぜ叩くのかについて考えてみたいと思います。

(ここでいう専業主婦に、パートママさん、赤ちゃんのいるママさんは含めません。)

 

思うに、その人たちはたぶん働いています。働いていない人もいるかもしれませんが、ここでは考えないことにします。

そして仕事に喜びを感じていない。もし仕事が好きなら、専業主婦を叩いたりしないはずだからです。

おそらくは、労働力として日々こき使われ、身も心もぼろぼろなのでしょう。

もしそんな状態だったら私も、「専業主婦はずるい、おまえらも働け!」と思ってしまうかもしれません。

 

でもちょっと待ってください。

その人たちが大変なのは、専業主婦のせいですか?

専業主婦が働きさえすれば、その人たちは幸せになれるのでしょうか?

そうはならないですよね。

それどころか、「自分が大変なのだから」「みんな大変なのだから」という理由で他人にもそれを押し付けようとすれば、大変であることが当たり前の世の中になってしまいます。

 

そもそも私がなぜ専業主婦でいるのかといえば、そのように労働力として酷使され、身も心もぼろぼろになるのを恐れているからです。

毎日の家事もトータルでけっこうな時間になります。理想がどうあれ、夫婦で分担することが難しい家庭だってあります。

働きに出ている人は、疲れて帰ってきてからそれらをこなしているわけですね。

 

立派です。でも私にはできません。

わがままと思われるでしょうが、私は家庭を優先し、自分の時間も確保したい。

この物価高ですから、その上でできる仕事があればやりたいと思っていますが、そんな素敵なお仕事なかなかありませんね。

時短を売りにしている職場も、忙しければシフトを増やすよう要求してきますし、それを断って殺伐とした空気の中で先に帰る気まずさは耐え難いものです。

 

つまり、世の中は働く人に優しくない。

働く以上は職場の都合が最優先。家庭や本人の希望なんて二の次三の次。

仕事で大変な人が専業主婦を叩く理由も、専業主婦が専業主婦でいる理由も、ここにあるのではないでしょうか?

 

行ったことはないですが、ヨーロッパには専業主婦はほとんどいないそうですね。

記事を書くにあたって調べてみましたが、具体的な数字を列挙したものは見つけられませんでした。国によっても違いがあるようですが、スウェーデンは専業主婦の少ないことで有名らしいです。ただし残業もない――残業という概念が存在しないらしいです!

 

ヨーロッパでは日曜日はお店自体が閉まっているともいいます。

不便そうだと感じる人もいるでしょうが、私はうらやましいです。

 

最近では、人手不足を理由に閉店時間を早める店をときどき見かけますが、これは英断だと思います。少ない人員で無理に回そうとすると、従業員が辞めて人手不足に拍車がかかってしまいますから。

店や会社は「人手が足りないのでできません」と過剰な注文を断り、顧客側は「それじゃあしょうがない」と理解を示す。日本もそういう方向へシフトしていくべき時が来ているのではないかと、私は思います。

 

一生懸命働いて、気持ちよく帰る。

そんな世の中になれば、働く人は専業主婦を叩いたりせず、専業主婦たちもまた進んで働きに出るのではないでしょうか。